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W通信・第24号ー黒部ルート見学記③(終)ー(H.28.7.30記) [W通信]

北陸の旧友、Wさんから送っていただいた「W通信・第24号」の続き,「写真で綴る、黒部ダム・非公開ルート見学記③(終回)」です。

「欅平~黒四ダム間の非公開区間」の位置関係は以下の通りです。

黒部トンネル見学ルート図.jpg

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黒部ダムの観光放水です。

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 ダムサイトに造られている殉職者慰霊碑です。

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慰霊碑横に171名のお名前が刻んでありました。

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ダム堤から下流方向を見ています。

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黒部湖から乗り物を乗り継ぎ、室堂へ来ました。立山です。

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参加記念にいただいた「氷筍水」です。厳冬の黒部のトンネルに竹の子のように成長する氷柱は、腰の高さまで成長するものもあるそうです。

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今回の見学会参加にあたって、吉村昭「高熱隧道」、木本正次「黒部の太陽」を読み直し参加しました。工事は、極めて厳しい自然環境、気象条件のもと、季節、時間を問わずで敢行されました。働かれた方のご苦労、殉職された方の無念さを思い浮かべながらの参加でした。改めて、黒部川電源開発は歴史に残る大工事と思いました。

今回歩いた宇奈月は標高224M、黒部湖(ダムの名前は、かっては黒四ダムで、現在は黒部ダムと言っています)は1454M。日本一の急流河川と思います。加えて、極めて急峻で厳しい自然条件の地にあります。関西電力が社運をかけて挑んだプロジェクトの一端を感動を持って見学できました。なお、破砕帯で知られているのは信濃大町扇沢~黒部ダムのトンネルです。来年は、ダム出発コースでもう一度見学して、帰りは欅平周辺の温泉に浸かり山菜を食べることが出来ればと考えています。(終り)

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Wさん、いつもながらの素晴らしいフォトレポートをお送りいただきまして有難うございました。

我がblogが夏季休眠に入る前の記事は、旧友5人組の「奥越紀行」シリーズでしたが、5人組のメンバーの一人であるWさんの「W通信」のおかげで休眠から目を覚ますことが出来ました。

我がblogは本格的に「旧友5人組・交友blog」の色彩を濃くしてきているようです。

Wさん、これからも格別のご支援をよろしくお願い申し上げます。

なお、Wさんの記事に関連して、「黒部ルート」でWEB検索をしてみました。

「黒部ダム・非公開ルート」見学会の概要が写真を含めて大変わかり易く解説されているサイトを見つけました。

興味のおありになる方は、ココポチでどうぞご覧ください。


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W通信・第24号ー黒部ルート見学記②ー(H.28.7.29記) [W通信]

北陸の旧友、Wさんから送っていただいた、「W通信・第24号」の続き、「写真で綴る、黒部ダム・非公開ルート見学記②」です。

「欅平~黒四ダム間の非公開区間」の位置関係は以下の通りです。

黒部トンネル見学ルート図.jpg

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欅平から工事用トロッコ電車に3分程乗り、竪坑エレベーターで200M昇ります。

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エレベーターを昇った地点で外の景色を見ました。黒部川上流部を望んでいます。左側の大岩壁は奥鐘山の大岩壁です。クライマー憧れの岩壁だそうです。

昭和13年12月27日深夜「ほう雪崩れ」が発生し、対岸志合谷に設けられていた、ダム建設宿舎で就寝中の84名の人が、宿舎もろとも黒部川を越え600M程離れたこの大岩壁まで飛ばされたそうです。

信じられないような雪崩でした。こまで飛ばされたと分かるまで2ヶ月間以上を要したそうです。関係者が経験、予想も出来なかった巨大なエネルギーを持つ雪崩でした。ほう雪崩という概念がまだ認識されていませんでした。

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竪坑エレベーターを降り、蓄電式バッテリカー車両で高熱隧道を通り、黒部川第四発電所まで行きます。1車両10人乗りの小さな車両です。

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途中の仙人谷ダムです。昭和15年完成でかなり埋まっています。黒部川第三発電所の水はここから取水しています。

仙人谷ダム手前に高熱隧道があります。建設当時岩盤最高温度は160℃を超えていましたが、現在は40℃程との説明がありました。硫黄の臭いを嗅ぎ、湯ノ花のような結晶を見ました。

工事は昭和11年から15年にかけて行われました。戦時体制が強まる中、現在では許されない、極めて劣悪な労働環境と考えました。黒部第三発電所建設に絡む工事で300名を超える犠牲者がでました。詳しくは吉村昭「高熱隧道」に書いてあります。

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仙人谷ダム下流部の景観です。  

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終点黒四発電所です。発電所手前に14年前、紅白中島みゆきが歌った場所がありました。NHKスタッフ100人程が来たそうです。

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4機の発電機があり、手前の4号機と一番奥の1号機が動いていました。最大出力33.5万KWで見学時は8万KWの出力でした。広大な発電所は無人で動いているそうです。

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巨大な水車です。18年間使用したら交換と聞きました。



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発電所からは「インクライン」というケーブルカー運搬器具で最大斜度34殿のトンネルを昇りました。車内で中島みゆき紅白DVDを観ました。

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インクラインを降り、黒四ダムまでトンネル内をバスで移動しました。途中、バスを降りて外の景色を見ました。下流方向を望んでいます。生憎、剣岳は雲の中、雪は三の窓雪渓です。

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見学会は黒四ダムで解散です。展望台からの風景です。黒部湖を観光船が行きます。



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黒四発電所は全て地下にあります。理由は公立公園内で自然景観を守る、積雪、雪崩れ等から設備、建物を守る等の理由と聞きました。発電機4機がある建物空間は高さ33M,長さは117Mです。大きな建設機材、発電機等をどうして狭い軌道、トンネルで運んだのか興味は尽きません。(続く)



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先程(29日 20:23 頃)、北陸の旧友Wさんからメールがありました。

Mrブラックアウトさん アップありがとうございました。説明のなかで、10年程前から一般公開と書きましたが、本を読んでいたら20年程前の間違いでした。(後略)

とのことですのでお詫びして訂正させていただきます。「W通信・黒部ルート見学記」は明日で終わりです。


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W通信・第24号ー黒部ルート見学記①ー(H.28.7.28記) [W通信]

7月7日にアップしてから夏季休眠中の我がblog。

我がblogの「夏バテ」に「活!」を入れてやろうという親心でしょう、4日前に例によって北陸の旧友Wさんから「W通信」の原稿が飛んできました。「黒部ダム非公開ルート見学記」です。

時節柄文字通り「干天の慈雨」というべきグッドタイミングなメールに感謝して、早速数回に分けてアップさせていただくことにしました。

先ずはメール冒頭の御挨拶文からご紹介します。

Mrブラックアウトさんご無沙汰しています。梅雨が明け暑くなりました。しかし、クーラー無しで生活しています。

先週21日に同期のW.Yさんと関西電力黒部ルート見学会に参加しました。欅平~黒四ダム間はかって非公開でしたが、10年程前から一般に公開されています。3回目ほどの申し込みで当選し、参加できました。

見学ルートには吉村昭「高熱隧道」で知られた難工事現場、さらには黒部第四発電所があります。宇奈月からトロッコ電車で欅平まで行き、そこから、黒四ダムまで通常非公開ルートの見学が出来ました。以前から行きたいと思っていましたが、今回ようやく念願がかないました。

添付写真が多くなりました。カット、そして文も直して頂ければ幸いです。W

黒部ダムはこれまで数回訪れていますが、「欅平~黒四ダム間の非公開区間」の知識がほとんどありませんでしたので、早速関西電力のHPにアクセスして、その位置関係を確認してみました。なるほど、欅平から黒部ダムまでの「太い朱線の区間」が今回Wさんが見学された区間なのですね。

黒部トンネル見学ルート図.jpg

以下、Wさんの「写真で綴る、黒部ダム・非公開ルート見学記①」です。

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ここからトロッコ電車に乗り20km先の集合地欅平を目指します。



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可愛らしい機関車、横には資材を運ぶ貨車があります。元々、この軌道は水力発電所、ダム建設資材を運ぶために造られました。



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この車両に3人乗りました。

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宇奈月ダム湖畔にある新柳河原発電所です。「湖上に浮かぶ城」をイメージしています。

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トロッコ電車軌道横にある冬季歩道です。

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「富山の建築百選」に選ばれている黒部川第二発電所です。

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トロッコ電車終点欅平、標高600Mでここから見学会が始まります。(続く)

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奥越紀行⑯(終)ーパピリンー(H.28.7.7記) [旅日記]

5月23日。勝山、大野を巡った奥越観光を終えて福井駅に戻りました。

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この旧友5人組の「奥越紀行」も今日が最終回です。

前日の5月22日に福井駅に集合した際に外観を眺めた、福井駅西口再開発ビル「パピリン」に向かいます。

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この「パピリン」は、JR福井駅の西口再開発事業として建設が進められ、本年4月28日にグランドオープンした、商業複合ビル。

憩いと集いの広場、観光案内所、観光物産館、多目的ホール、ボランテイアセンター、プラネタリウムなどががあり、中心市街地の交流拠点として、ふくいの魅力的な情報発信基地となっています。

「ハピリン(Happiring)」とは、英語で幸せを意味する「ハッピー」と、輪の「リング」を掛け合わせ、ビルを中心に幸せの輪が広がってほしいとの思いが込められているとのこと。

1Fエントランスの広場、ハピテラスです。

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ハピテラスの前面にはバス乗り場のある駅前ロータリーが。

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ロータリーの一角にある、福井鉄道の乗り場。

福井鉄道は昭和30年代から名古屋鉄道の資本傘下にありましたが、10年前に名鉄が撤退し、地元自治体、地元資本による経営再建が進められています。

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「パピリン」の1F、2Fを短時間見物しました。

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2時過ぎにパピリンの1Fで、名古屋組のFさんと私は、富山組のNさん、Wさん、そして今回格別のお世話をいただいたMさんとお別れし、駅東口の高速乗り場へ向かいました。

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帰りの「名古屋行き高速バス」の運行会社は「京福バス」です。乗り場に到着しました。

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乗車します。

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14時30分、定刻。福井駅東口を後にして、名古屋に向けて出発しました。

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今回の幹事を担当していただいた、Mさん。2日間格別にお世話になり、誠に有難うございました。

旧友5人組の皆さん、次回は秋の富山小集合でお会いしましょう!(終り)


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奥越紀行⑮ー八助蕎麦ー(H.28.7.6記) [旅日記]

5月23日。奥越の小京都「大野市」観光を終え、福井へ戻る途中、勝山市内の「蕎麦」の名店に寄りました。

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幹事のMさんの運転で勝山市内をナビを頼りに「八助」を目指しましたが、赤色点線の曲がり角がすぐには見つかりません。青色線→方向に行き過ぎ、黄色線→方向にUターンしても、曲がり角がわかりません。再度Uターンして、赤色線でゆっくり走行。ようやく、くるま1台がやっと進入できる細い路地を見つけることが出来ました。(汗;;)

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細い路地を曲がって、やっと「八助」のお店に到着しました。

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入店します。

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 入店して間もなく席が空きました。

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メニューは「おろし」「ザル」「山かけ」「かけ」と、そば4種のみです。おろしそばを注文しました。

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もともとは「八助」という名の先々代が戦後粉挽き屋を始め、その孫にあたる現在の主人が13年前に「蕎麦屋」を始めたとのこと。

店内で石臼製粉した挽きたての蕎麦粉を手打ちし、打ち立て茹でたてのお蕎麦が味わえるので評判のお店だそうです。

お蕎麦が出てくるまでの間、Nさんと私は「秘之一本義」なる秘蔵酒を注文しました。

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地酒をいただきながら、昨日、今日の奥越旅行の話題で盛り上がります。

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お蕎麦が出てくるのを待つ間に、お客さんがどんどん入店してきます。(写真はありません)やはり人気があるのですね

お待ちかね、「八助」自慢の二八そばが出てきました。

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大根おろしをかけて、風味の良いおろしそばをいただきました。のどごしの良い細麺です。

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幹事のMさんお勧めの「八助」蕎麦を堪能して、お店を後にしました。

我々がお店を出た途端こんな看板が出されました。「売り切れご免」のお店の面目躍如といったところでしょうか。

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そう言えば3年前の越前旅行では、福井市の「けんぞう蕎麦」をいただきましたね。(ココポチでどうぞ)

福井県といえば「蕎麦」なんですね。(続く)


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奥越紀行⑭ー朝倉義景墓所ー(H.28.7.5記) [旅日記]

5月23日。「大野市」観光もいよいよ最終コース。住宅地の中にある「朝倉義景墓所」です。

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杉木立に囲まれた、高さ1.5mの五輪塔が朝倉義景のお墓です。

戦国時代に一乗谷城を中心に越前国を支配した戦国大名朝倉家の5代当主である朝倉義景は、1573(天正元)年信長の攻撃を受け一乗谷から大野に逃れ、一族の朝倉景鏡にそむかれて自刃しました。

この墓所は、義景が自刃した六坊賢松寺のあったところといわれています。

福井市城戸ノ内町には戦国時代に栄華を極めた朝倉家の一乗谷遺跡がありますが、 一乗谷の朝倉遺跡は、平成25年3月に今回の幹事であるM君にご案内をいただきました。(3年前のマイblogをココポチでどうぞご覧下さい)

墓所に隣接して「義景公園」があります。

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門をくぐって進みますと「義景庵」が。

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「義景庵」の左手に「水琴窟」がありました。

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近寄って耳を澄ませると、「琴の音色」に似た水の滴り落ちる際の妙なる音が聴こえました。

「水琴窟」とは・・・

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WEBを検索しましたら、こんな動画が見つかりました。(動画が始まってすぐ、水琴窟の妙なる音色が聞くえてきます)



墓所のすぐ前には「義景清水」と呼ばれる湧水池がありました。

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池に近づいて、湧水源付近をよく見ると「イトヨ」が沢山泳いでいるのが見えました。

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「イトヨ」は国の天然記念物。平成17年には大野市の「市の魚」に指定されたとのこと。

「義景清水」で貴重な天然記念物を眺めることが出来てラッキーでした。

「朝倉義景墓所」を最後に、大野市観光を終えて、勝山経由で福井駅に戻りました。(続く)


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奥越紀行⑬ー平成大野屋-(H.28.7.4記) [旅日記]

5月23日。「武家屋敷・旧内山家」を出ると、「二階蔵」という建物が。

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ここにも「清水(しょうず)」がありました。

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「水舟清水」です。かつて谷や川から取水した水を利用するための貯水槽であった「水舟」をかたどっているそうです

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続いてすぐ近くの「結楽座」という特産品販売所に。

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「二階蔵」も「結楽座」も「平成大野屋」が経営する商業施設。

「平成大野屋」は市民と行政のまちおこし情熱から誕生した株式会社で、大野市と大野市民132名が出資して設立された市民参加型の第3セクターの会社。

「大野屋」と言えば、幕末の大野藩藩主、土井利忠が財政再建を目指して創設した「藩直営の商店」が「大野屋」。

全国に37店舗を展開し、大野の産品を他地域で販売し、その地域の産品をまた別の地域で販売するといった経営方法で、着実に利益をあげ、藩の財政再建に大きく寄与しました。

さらに開店から数年後には「洋式帆船 大野丸」を完成させ、洋上交易によりさらに収益をあげました。

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この藩主を補佐し、「大野屋」の経営を担ったのが、家老「内山良休(うちやまりょうきゅう)」。

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この幕末大野藩の名藩主と名家老の開拓精神を現代にに引き継いだ「平成大野屋」。

「天空の城・大野城」で一躍脚光を浴びている大野市の更なる飛躍の「礎」となることを期待したいものです。(続く)


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奥越紀行⑫ー旧内山家ー(H.28.7.2記) [旅日記]

5月23日。旧友5人組の越前大野市内観光。

「越前大野城」の後は「武家屋敷・旧内山家」に向かいました。

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この屋敷は、幕末期に大野藩財政の再建に尽力した、大野藩家老の内山七郎右衛門良休と弟の隆佐良隆の偉業を偲ぶため平成5年に、後の内山家の屋敷を解体復元し、保存したもの。

入口からの外観です(パンフレットから借用しました)

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建物の配置図です。

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駐車場から見た母屋。

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入口の案内看板です。

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幕末、天保13年(1842)、大野藩主土井利忠は行き詰まった藩財政を立て直すため、「更始の令」と呼ばれる改革令を出しました。

内山七郎右衛門良休・隆佐良隆兄弟はこの時から始まった藩政改革に尽力し、殖産興業・人材育成など各種の事業で成果を上げました。

七郎右衛門は特に、藩営商店の「大野屋」を開設、銅山経営など経済面で手腕を発揮し、多額の借財に苦しんでいた藩財政を立て直し、万延元年(1860)、家老職に就きました。

弟の隆佐は蝦夷地開拓の推進、洋式帆船「大野丸」の建造、蘭学の振興、軍備の刷新等を行ないましたが、52歳で病気のため亡くなりました。

七郎右衛門は、廃藩後も士族の救済を図るなど活躍し、明治14年(1881)、75歳で亡くなりました。

武家屋敷旧内山家は、2人の遺業を偲ぶため、後の内山家の屋敷を解体復元し、保存したものです。

(以上はウイキペデイアより)

入口から入館しました。

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母屋を通って離れを拝見しました。

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母屋他から眺められる庭園はなかなかの眺めです。

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内山七郎右衛門良休の肖像画。

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大野丸の模型も展示されていました。

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内山家に伝わる、当時の福井藩主、松平春嶽筆による詩幅も展示されていました。(一部、写真がピンボケですみません)

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幕末の大野藩の財政危機に果敢に対処し、藩製商社「大野屋」を創設、交易船「大野丸」を建造して藩財政の再建に成功した、内山七郎右衛門良休と弟の隆佐良隆。

現代の日本にも、こんな人材が求められているのでしょうね。(続く)


  


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